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【続・日本100名城 その30】 179  河後森城 

179 河後森城 (愛媛県北宇和郡) 

・城地種類: 山城

・築城  : 不明

・築城者 : 不明

・主な城主: 河原淵氏

       (登城日:2024年9月7日)

河後森城 (西曲輪群)

 伊予(愛媛)と土佐(高知)の国境に築かれた中世山城です。河後森城のある松野は、土佐と伊予を結ぶ幾つかの街道が合流する場所になっている交通の要所です。四万十川の支流の広見川、その支流の堀切川・鰯川の三つの川に囲まれた標高171mの独立丘陵のU字型の尾根上に本郭を中心として曲輪が展開しています。

 

風呂ヶ谷駐車場 

 ホテルから30分ほどで到着。登山口から出発です。

 

井戸 ここから登りになります。

 

 曲がりくねった道を登ると虎口になっていて、門がありました。門をくぐると西第十曲輪に到着です。

 

西第十曲輪

 復元されている掘立柱建物(馬屋)の中に続百名城スタンプがあります。小屋の中には手作りの馬もいました。

 

堀切城遺構(西第十曲輪)

 

西第十曲輪 史跡に指定される前は畑になっていたという話も。コンクリートの高さと幅で当時の土塁が一部再現されています。

 

西曲輪群 本郭まで、曲輪が段々に続きます。

 

曲輪を分断している堀切

 

本郭に続く虎口

 草で見えにくいですが、石垣があります。当初は土の城として造られましたが、秀吉の四国制定後に本郭の周りに石垣が築かれたといわれます。

 

本郭

 城内で一番高い場所に位置します。城主の居所で、儀式を行う主殿舎などもありました。通常の案内板のほか、子供たちが書いたものもありました。

 

 本郭からは広見川がよく見えます。川の向こうのとんがり屋根の建物は、この後トイレ休憩でよる虹の森公園です。

 

 本郭から東曲輪に移動します。真ん中あたりに見える木の案内板が松丸駅方面の登城口に続いています。

 

 東曲輪と古城の間にある堀切には門がありました。残念ながら、再現された門扉は脇に打ち捨てられていました。維持していくのは大変ですね。この堀切は登山口に続いているわけではなさそうです。

 

古城

 番所や櫓が立ち、敵を迎え撃つ戦闘的な空間となっていました。木が邪魔ですが、土佐と宇和島を結ぶ街道が一目で見渡せます。

 

古城から本郭方向をながめます。

 

 新城に向かいます。春はツツジがとてもきれいだそうです。

 

 新城からは、先ほどスタンプを押した西第十曲輪の掘立柱建物がよく見えます。谷の両側に築かれた曲輪に沿って、谷側に人一人が通れるくらいの細い道が続いています。木が邪魔でわかりにくいですが、敵がどちら側から登ってきても反対側から矢が飛んでくるという守りの堅い城になっています。

 

 虹の森公園からは河後森城の全景がよく見えました。

 谷を挟むように築かれた典型的なU字型のお城です。引田城もそうでしたが、こちらのほうがとても分かりやすいです。曲輪が階段状に連なっている様子もよくわかりました。草のない時期ならもっとよかったでしょうね。一部再現された橋などは補修中でしたが、道は整備されています。維持が大変な中ありがたいことです。といっても曲輪脇の道は狭く、片側は崖になっています。過去には転落事故もあったそうなので、歩く際は注意が必要です。雨の日は西第十曲輪までで引き返すのがいいかもしれません。

 松野町のホームページによると、城の築城年代は不明ですが、天文後期から永禄期、天正期にかけて機能し、この地域は黒土郷河原渕領と呼ばれていました。永禄期の城主としては、土佐一条氏一門から養子として入った河原渕教忠の名が残っています。長宗我部氏の四国統一、また秀吉による四国平定を経て、この地域を含む宇和郡は、戸田氏、藤堂氏、富田氏へと支配が移っていきます。藤堂高虎の時代には、河後森城の天守が板島城(現在の宇和島城)に移築されたという伝承が残っています。慶長19年(1614)、伊達秀宗宇和島藩を創立すると、付家老の桑折氏が居城したといわれ、その後、元和元年の一国一城令より廃城になっています。