落合石畳
全長840mにも及ぶ石畳。国の指定史跡となっていて、そのうち約70mは当時のままに残っています。当時のままの石畳が残っているのは東海道の箱根と、ここ落合の2ヶ所のみといわれています。
明け方は土砂降りの雨が降っていましたが、朝ごはんを食べ終わる頃には雨も小降りに。天気予報ではだんだんとよくなるということなので、予定通り中津川駅を8時10分発のバスで馬籠に向かいます。
馬籠についたころには雨もほとんど止みました。傘を差さなくても帽子があれば大丈夫そうです。身支度を調えたら出発です。
稲穂が色づいてきました。気持のいい風景が広がります。
馬籠城址
室町時代から馬籠城(砦)があったとされ、戦国時代は武田信玄の領地となっていました。武田氏滅亡後は、織田信長の時代を経て豊臣秀吉傘下の木曽義昌が治めていましたが、小牧長久手の戦いの際に馬籠城を警備していた島崎重通(藤村の祖)は大軍襲来に恐れをなし妻籠に逃れ、徳川の時代には、直轄地となり馬籠城は廃城となりました。
石仏群
道端の池にはきれいな蓮の花
新茶屋
かつての立場茶屋は岐阜側数百ほどの場所にありましたが、江戸の終わりごろに現在地に移りました。わらび餅が名物でした。
新茶屋の一里塚
日本橋より八十三里目
「是より北 木曽路」の碑
木曽路の南口にあたります。少し前まではここが長野県と岐阜県の県境でした。2005年(平成17年)の越県合併により馬籠は岐阜県になったのです。さて、木曽路ともお別れ。と言ってもまだ山の中なのであまり実感がわきません。それにしても木曽路は駆け足できてしまったので、馬籠峠はもちろん、木曽古道や与川道もゆっくりと歩きたいなぁ。
新茶屋の脇から始まる120mの石畳は、合併記念事業により落合石畳遊歩道(新茶屋遊歩道)として整備されたものです。
落合石畳
遊歩道から車道を渡るといよいよ落合石畳が始まります。
なんじゃもんじゃの杜
古生代の依存木で、正式名称は「いとつばたご」
石畳も終わり
医王寺
寛永六年(1853)の建立。薬師如来は行基の作と伝えられ、日本三薬師の一つ、虫封じの薬師として信仰を集めています。ここから落合川に架かる下桁橋までの十国峠の道はつづら折りの悪路として知られていましたが、明和八年(1771)に緩やかに上る道に付け替えられました。
ワレモコウだ
遠くには雲海
下桁橋
落合川に架かる橋を渡ったところに飯田道との追分があります。
44.落合宿
美濃路の東端、三と六の日に六歳市が開かれていました。文化元年(1804)、12年(1815)の二度の大火で宿は大きな打撃を受けました。中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は75軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠14軒。宿内人口は370人(男182、女188)
高札場跡
常夜燈
秋葉様の常夜燈が四基あり、戸毎をまわる当番により灯をともしてきました。寛永4年(1792)に建てられましたが、道路整備の際に三基は移され一基だけが当時の姿をとどめています。
落合宿本陣跡
井口家は代々本陣を勤めるとともに、問屋、庄屋も兼務し苗字帯刀を許されていました。改修の時に現在の位置に移設された正門は、文化元年の大火の後に、加賀の前田候より贈られたものと伝えられています。
落合宿助け合い大釜
文久元年(1861)、皇女和宮降嫁の大行列では、4日間で述べ約2万6千人余が通るため暖かいもてなしをするため、各家ではかまどを炊き続けたといいます。この大釜は天草(寒天)を煮るために使用されたもので口径は約1,5m、容量は1,000Lを超えます。
善昌寺の門冠松
お伽藍神社(落合五郎城跡)
木曽義仲の家臣で、四天王のひとりと言われた落合五郎兼行が、美濃の勢力に備えて館を構えていました。地元では「おがらん様」としたしまれています。このあたりは旧道が消失していて国道を跨いだりくぐったりしますが、案内板がちゃんとあるので見落とさずに歩けば大丈夫。
与坂立場跡
馬籠を過ぎたら平坦な道になるかと思いきや結構アップダウンがあります。
道沿いにずらっと並ぶのはエサ台なの?
子野一里塚跡
日本橋から84番目
覚明神社
木曽御嶽講の開祖、覚明が御嶽山を拓くため通った際に泊まった茶屋があった場所に建った神社です
快心庵
トイレもある休憩所でひとやすみ
子野地蔵堂石仏群
街道沿いの小高いところにある石仏群のあるところには地蔵堂があったといわれています。ここのしだれ桜は見事だそう。石仏群の中でも気になったのがこれ。半跏思惟像の如意輪観音のお顔はなんだかとってもけだるそう。そして一回拝めば全部叶っちゃいそうな七観音
第一用水 上金水力発電所
今から約350年前に開設された水路の落差を利用して、道路の街路灯のための発電をしています。クリーンな電気をつくるため中津川市では小水力発電の開発に取り組んでいるそう。こういう取り組みは大事だよね。このさきで道案内にしたがって中津川バイパスをくぐります。
ここにもきれいなユリの花
尾張藩の直轄地であった木曽山から伐採した材木の輸送は、重量材(丸太材)は木曽川を利用して流送し、軽量材(榑木、土居等白木類)は牛、馬による駄送されていました。木曽川筋には「川番所」、中山道には「白木改番所」が設けられ、厳しく抜け荷の監視と量目の点検が行われていました。
芭蕉句碑「山路来て なにやらゆかし すみれ草」
旭ヶ丘公園の脇をすぎ茶屋坂に入ると久しぶりの石畳。奥には中津川の街が見えてきました。
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