マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【続・日本100名城 その12】  113  土浦城

113 土浦城 (茨城県土浦市) 別名:亀城

 

f:id:madaonakumisan:20220130154432j:plain

・城地種類 平城(菅谷館)

・築城   室町時代

・築城者  若泉氏

・主要城主 菅谷氏 松平氏 西尾氏 朽木氏 土屋氏

                                              (登城日:2021年11月28日)

 

f:id:madaonakumisan:20220130154624j:plain

土浦城

室町時代後期ごろに若泉氏が築城したと伝えられています。戦国時代は菅谷氏が、家康の関東入封後は結城秀康が入城しますが、松平家・西尾家・朽木家・土屋家・松平家と代わり、松平信興時代の貞享二年(1685)に大改修され現在の縄張りとなりました。土屋家が再び入封して以後土屋家が11代(約200年間)に渡り治め明治維新を迎えました。別名の「亀城」とは、土浦の街が桜川の洪水で水没しても、土浦城だけは沈まずに、浮かぶ亀の甲羅のように見えたことに由来します。

 

f:id:madaonakumisan:20220130154734j:plain

西櫓

昭和24年(1949)の台風で被害を受け解体されましたが、平成3年(1991)に保管されていた部材を用いて復元されました。

 

f:id:madaonakumisan:20220130154813j:plain

f:id:madaonakumisan:20220130154835j:plain

東櫓

明治時代の火災で本丸館とともに失われてしまいましたが、平成10年(1998)に復元完成されました。市立博物館の付属展示館として見学ができます。

 

f:id:madaonakumisan:20220130154907j:plain

本丸跡

明治維新後、本丸御殿は県庁や郡役所として使用されていました。火災による焼失後も郡役所として使用されていましたが、郡役所の廃止と共に整地されて広場になりました。

 

f:id:madaonakumisan:20220130154933j:plain

櫓門

明暦二年(1656)に改築されたと伝えられ、本丸にある櫓門としては関東地方では唯一現存するものです。左右の土塀は復元建築です。

 

f:id:madaonakumisan:20220130155045j:plain

二の丸跡

 

f:id:madaonakumisan:20220130155119j:plain

亀城のシイ

二の丸に残る樹齢約500年のスダジイです。樹高約16m

 

f:id:madaonakumisan:20220130155345j:plain

霞門

こちらも現存している門のひとつです。

 

f:id:madaonakumisan:20220130155428j:plain

明治維新後に堀が埋められてしまいました。その後復元されましたが屈曲していた堀や土塁は直線となっています。

 

f:id:madaonakumisan:20220130155531j:plain

旧前川口門

二の門があったところに移築されています。

 

f:id:madaonakumisan:20220130155624j:plain

土浦城模型(土浦市立博物館)

続百名城スタンプは博物館入口にありました。休館日は、まちかど蔵大徳で押せるそうです。

 

 平安時代平将門が砦を築いたという話も残っているそうですが、文献上明らかになっているのは室町時代後期の永享年間(1429-1441)に、八田知家の後裔で豪族の小田氏に属する若泉三郎が築城したが始まりのようです。戦国時代には、小田氏の重臣菅谷氏に奪われます。菅谷氏は生涯小田氏に忠誠を誓い、小田氏の佐竹氏臣従二より土浦城を失いますが、小田氏への忠心を評価されて徳川家康の家臣となり子孫は幕末まで続きます。徳川家康の関東入により土浦城には家康の次男結城秀康が入城します。以後、松平家・西尾家・朽木家・土屋家・松平家と代わります。西尾氏の時代に東櫓と西櫓が完成、朽木氏の時代に太鼓櫓門に改築され、松平信興の時代の貞享二年(1685)に大改修され現在の縄張りとなりました。土屋家が再び入封して以後土屋家が11代(約200年間)に渡り治めて明治維新を迎えました。

 土屋氏は、桓武平氏の流れをくむ中村氏の分流で、鎌倉時代には出雲や河内で地頭を任官し勢力を伸ばしていましたが、室町時代初期に相模国本領を奪われました。甲斐を本領とした甲斐土屋氏は武田氏の家臣となります。天目山片手切りの土屋昌恒の嫡男 土屋忠直は、脱出後徳川家の家臣となり、忠直の次男数直が土浦藩土屋家となり明治維新を迎えています。あの片手切りの子孫だったんですね。