畠山重忠は、源頼朝の信頼厚く鎌倉武将の鑑ともいわれていました。頼朝の死後、権力争いに巻き込まれ、鎌倉に向かう途中この辺りで討死し、首は鎌倉に送られ、遺体はこの場所に葬られたといわれています。
(鶴ヶ峰駅)→ 畠山重忠ゆかりの地(鐙の渡し・首洗い井戸・首塚・さかさ矢竹・矢畑・越巻き・六塚・薬王寺・駕籠塚) → 白根公園・白糸の滝・白根神社 →中山 → (川和町駅) 約9km
畠山重忠の足跡 案内板
鶴ヶ峰駅に近いこの辺りは、元久2年(1205) 畠山重忠が無実の罪をきせられて北条義時率いる大群に滅ぼされた場所です。まずは重畠山重忠の足跡を訪ねることにしました。
鐙の渡し・首洗い井戸・
プロムナードとして整備されている帷子川の跡地の辺りでは、鎌倉時代の武士は鐙を頭上にかざして川を超えていたそうです。川の流れが変わり失われてしまいましたが、重忠の首を洗い清めたといわれる井戸がありました。このすぐ先に重忠の首塚があります。
プロムナードにジョウビタキがいました。
首塚から鶴ヶ峰駅入口の交差点に出ると、中の道の道標がありました。が、ここはちょっと寄り道。畠山重忠の足跡をたどります。
さかさ矢竹・重忠公碑
北条勢に敗れた重忠は「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と二筋の矢箟を地に突き刺し、この矢が自然に根付き年々二本ずつ生えて生い茂り「さかさ矢竹」と呼ばれるようになったと伝わります。昭和40年代中ごろまでは、現在の旭区区役所北東側の土手一面に茂っていたそうですが、その後消滅してしまいました。没後750年に碑を、800年にさかさ矢竹を植えています。
矢畑・越巻き
北条勢の放った矢が一面に突き刺さり、矢の畑のようになったといわれています。
六塚・薬王寺
重忠はじめ一族郎党を埋めたと伝えられている6つの塚があります。
駕籠塚
重忠の内室「菊の前」は、合戦の連絡を受け急遽駆けつけましたが、この地で重忠戦死を聞き、悲しみのあまり自害してしまい駕籠ごと埋葬されたといわれます。以前は、浄水場の中に大きな塚があったそうですが、場外に移され現在の姿に整備されています。
鶴ヶ峰神社
駕籠塚の近くに神社がありました。明治政府が小さな神社の合併を促した際に今宿村の神明社に吸収されてしまいましたが、後に氏子によりこの場所に返還されています。
高台のこの辺りは富士山がよく見えます。
白糸の滝
白根交番前の交差点で、鎌倉街道に合流します。少し進んでちょっと寄り道。公園を抜けると白根神社があります。境内を流れる中堀川には白糸の滝があります。
白根不動として古来親しまれてきましたが、明治の神仏分離令によりこちらは白根神社となり、お堂が白根不動尊となりました。不動尊から続く階段は危険なため通行禁止となっており、滝から続く坂を上っていきますがこちらも台風の影響で道が狭くなっていました。
本尊は弘法大師作と伝わります。八幡太郎源義家の持仏で、前九年の役にこの座像を兜内に収めて勝利し、そのお礼として伽藍を建立したのが起源とされています。
街道に戻ります。ここにも道標がありました。正円寺は浄土真宗のお寺ですが創健当時は真言宗だったそうです。この辺り一帯を知行していた地頭藤川十衛門重安の墓があります。この先、郵便局をすぎ相鉄ローゼンの駐車場の角を曲がリ細い坂道を上っていきますが、曲り角のところには道標が見当たりませんでした。
細い坂道を上っていくと「古道カフェ」の看板を発見。この先のコンビニで何か買って公園でお昼にしようかと思っていたけど、ここでお昼にしちゃいました。町の居場所づくりの一環としてアパートの一画をシェアカフェとしてオープンしたそうです。この日は「はん菜Soup one café」が営業中。地元の野菜を使った料理が食べられます。三浦のカリフラワーを使ったスープをいただきました。優しい味のスープです。とても居心地のいい場所でした。
細く長い坂道を歩いていきます。ここからも富士山が見えました。
長坂谷公園
お昼にしようと思っていた公園にもちょっと寄り道。運動施設やトイレもある大きな公園です。一休みしたらそのまま道なりに進み、県道を渡り進んでいきます。
長泉寺の脇をぬけ、横浜線の踏切を渡ります。中山駅はすぐそこ。
中山地区センターから県道へ抜け都橋で恩田川を渡ります。しばらく歩き青砥町北の交差点から旧道へ入ります。
北向き観音
飛び出し坊やの電柱のすぐ後ろに北向き観音があります。この先は旧道が消滅しているので、ここから新道にもどります。
鶴見川を渡ります。精進橋の隣は地下鉄の鉄橋。渡し場は橋よりも下流にあったそうです。橋をわたってすぐの角を曲がり旧道へ入るようになっていますが、工事中でした。川沿いの道から下りていくか、駅の方から回り込むようになります。今日は橋を渡ってすぐ目の前にある地上にある地下鉄の駅川和町駅から戻ることにしました。
畠山重忠ゆかりの地から歩き始めましたが、二俣川と聞いて古戦場を思い浮かべる横浜市民はほどんどいないのではないでしょうか。二俣川とえば「あれ」しかありません。運転免許センター。菅谷館を訪れたとき古戦場の二俣川ってどこだろうと思っていたのでしたが、鶴ヶ峰だったんですね。重忠は鎌倉殿の13人にいてもおかしくない人物です。頼朝の信頼厚く実直で文武に優れた実力者。力持ちエピソードも人柄を感じます。ゆえに北条氏にとっては邪魔だったんでしょうね。本当の首謀者は時政?牧の方?それとも義時? 今となってはわかりませんが、北条氏の権力に対する執着。半端じゃぁない。でも反勢力を潰し続けて周りをイエスマンで固めると結局は自分の首を絞める・・今も変わらないんだな。為政者には歴史をよく学んでほしいと思うこの頃です。
*重忠ゆかりの地歩きは、横浜市旭区のホームページを参考にしました。