120 菅谷館 (埼玉県比企郡)
・城地種類 平城(菅谷館)
・築城 不明 (平安時代末期?)
・築城者 不明
・主要城主 畠山氏
(登城日:2020年11月22日)
菅谷館跡
鎌倉街道沿いにある菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人 畠山重忠の館と伝えられています。重忠は、謀反の嫌疑をかけられ北条氏に滅ぼされてしまいます。15世紀から16世紀にかけては、山内上杉氏の拠点となり大幅に改修され、現在残る遺構はその頃のものといわれています。
案内図
本郭の土橋
本郭
土橋を渡り中に入ると、東西約150m、南北約60mの長方形の広い本郭が広がっています。
本郭から南郭への出入口
本郭 生門跡
本郭への出入口のひとつ。と、案内にあるのだけどその先は堀になっていて進めませんでした・・・。
出枡形土塁
本郭と二ノ郭の間には曲線の堀があります。凸型に出ている土塁からは、敵に横から矢を射かけることが出来るようになっています。杉山城に似てるかなぁ
畠山重忠像
二ノ郭の小高い場所にある重忠像は、地元の有志の方々によって作られ鎌倉の方を向いて立っています。頼朝の信厚く、武士の鑑ともいわれた重忠。なぜ謀反なんて・・・実は北条時政と牧野方によるでっち上げ。殺害された翌日になって無罪だといわれてもねぇ。真相は闇とはいえ、結果的に武蔵を北条下に置くことが出来、時政も追放できて漁夫の利を得たのは北条義時。義時と重忠は従兄弟になるそうで、父の命に背けず、重忠の首を見て涙したとも伝わるけど。あちこちで謀殺の話が聞こえてきて、生き残るのは大変な時代だったと改めて思うのでした。
二ノ郭
二ノ郭も広々としています。
二ノ郭
三ノ郭とは高さが6mもある土塁と堀で隔てられていました。前の道路は堀を埋め立てたもので、植栽部分には土塁があったといわれています。
三ノ郭
発掘調査で井戸跡と掘立柱建物跡が発見されています。後ろの建物は、埼玉県立嵐山史跡の博物館です。
三ノ郭
蔀土塁
西ノ郭から三ノ郭の様子が見通せないようになっています。
正拈門跡
西ノ郭と三ノ郭の出入り口で、西ノ郭より1メートルほど高く盛土されています。敵の侵入が困難になるように工夫されています。
西ノ郭と正拈門との間の堀に木橋の橋脚の基礎と思われる石積が発見されています。木橋が推定復元されています。
西の郭
左に続く道が大手に続いてその先に大手門があるようなんだけど・・説明がなくてよくわかりませんでした。
南郭
二ノ郭と本郭から下りられます。一段低い細長い郭です。
南郭から下りてきました。この辺りが館の際、河川敷だった場所でしょうか。この先は館跡を外れるようです。蝶の里公園,オオムラサキの森へと続き、道なりにぐるっと歩いていくと西郭に戻ります。
搦め手門跡
埼玉県立嵐山史跡の博物館の駐車場につながる入口になっています。スタンプは博物館で押せます。訪れたときは、感染症のため職員出入口の脇に置いてありました。展示を見たい方は、そのまま職員出入口を進み、検温して連絡先を書いて博物館の中へと進みます。展示は一部のみでしたが、中に入ると重忠公が説明してくれますよ。
城跡というよりも自然公園の一部のようで、木の実やお花を楽しみながらお散歩にちょうどいい感じのところでした。
杉山城と同じく「国指定比企城館跡群」の1つです。杉山城からは鎌倉街道を下り、菅谷館跡へとやってきました。館というには広くて堀も土塁もしっかりと造られています。杉山城と同じころに改修された上杉の城ということで、堀の感じとかなんとなく似ているような。
鎌倉街道沿いは多くの戦いが繰り広げられた場所です。鎌倉街道も歩きたいな。でも歩くとなれば武蔵武士についてもう少し知っておくほうがよさそうです。鎌倉時代は血縁関係が複雑なうえ、なんとな~くどろどろとした陰謀渦巻く世界の感じがして、って戦国時代も同じといえば同じなんだけど。ちょっと避けてきた感じがあるのです。新型コロナウイルス感染症が落ち着くまでは遠出も難しそうなので、近場を歩きながら勉強していきたいと思います。