マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【中山道 26日目】 62.番場宿 → 63.鳥居本宿 → 64.高宮宿    2018.09.16 (日)

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摺針峠
神明宮の境内から琵琶湖がよく見えます。当時は手前まで入り江だったそうです。鶯ヶ端跡で京の空が見えるといわれてもあまり実感がなかったけど、琵琶湖をみると京に近づいたのを実感します。白い塔のような建物は、フジテックのエレベーター研究塔。一般の人は登れません。TVで放送していたのを思い出しました。それこそ絶景でしたね。そして左下が、望湖堂跡。望湖堂という大きな茶屋があり、峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打ったそうです。茶屋とは言いながらも建物は本陣構えで、「御小休御本陣」を自称するほどだったそうです。往時の姿をよく留め、参勤交代や朝鮮通信使の資料なども多数保管していましたが、1991年の火災で焼失してしまいました。残念ですね。

醒井駅 → 61.醒井宿 62.番場宿63.鳥居本宿64.高宮宿    約15km
                                           +多賀みち(3.7km)

 曇っているけど、雨は上がったもよう。本日は醒ヶ井駅から出発です。地蔵川に架かる橋を渡って中山道に戻ります。朝は肌寒いくらいの気温でしたが、陽がさすにつれ気温も上昇。蒸し暑い1日となりました。

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西行水・泡子塚
地元の人も人気の湧水です。西行が飲み残した茶の泡をのんだ娘が男子を出産したが、西行が念じると泡になったという話が伝わっています。

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一類狐魂等衆碑
母を慕い行き倒れた老人に父をふくませると安らかに往生したと伝えられています。前を歩くグループも中山道歩きみたいです。

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番場宿に向かう旧道にはあちこちに、中山道の案内板が設置されています。


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久禮の一里塚
江戸日本橋から百十七里目


62.番場宿
 名水の里として知られ、清水が豊富で旅人の休憩地として賑わいました。 中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は138軒、うち本陣1、脇本陣1、問屋場7、旅籠11軒。宿内人口は539人(男266、女273)

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問屋場
いつの間にか番場宿に入っていました。

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番場宿碑 脇本陣跡 問屋場跡  本陣跡
碑が残るばかりです。それにしても問屋場の数が多いですね。9里半街道の宿場町のひとつで、ここから米原の港へ荷が運ばれていました。


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蓮華寺
聖徳太子が創建した古刹。最後の六波羅探題北方 北条仲時が、元弘三年(1330) 後醍醐天皇方についた足利高氏の裏切りにより京を追われ蓮華寺まで逃れましたが、朝廷軍に囲まれ本堂前で432人全員が自刃しました。「太平記」の歴史はちょっと苦手。今度ちゃんと勉強ないと。そして「瞼の母」番場忠太郎碑もあるそうです。番場忠太郎の番場はここだったんですね。へぇ~と思いながらお寺が高速道の奥だったので、なぜかお寺の入口で写真を撮っただけでスルー。ちゃんと見ておけばよかったな。

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鎌刃城跡
ここから続日本100名城の鎌刃城に行けます。

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源右衛門Café
ここに続100名城のスタンプが置いてあります。スタンプを押して、パンフレット(\100)をもらって先ほどの入口まで戻って鎌刃城へ向かいました。詳細は別ページに書きます。そして、ここが番場宿唯一の食事処のはず。ですが・・・城跡から戻っても開いていませんでした。看板も出ていなくてカフェの営業はしているのか不明です。そして番場宿にはトイレもありません。もちろん鎌刃城にも。蓮華寺にはあったのかなぁ。醒井宿を過ぎるとこの先鳥居本宿までトイレはありませんでした。寄り道する方はお気をつけて。

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番場宿ともお別れです

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地蔵と泰平水
山城攻略をして汗びっしょりの身体に、ここの水はうれしい。冷たい水で手と顔を洗って一休み。お地蔵様にお礼を言わなきゃ。この道は小摺針峠で米原市彦根市の境界になります。誰もいないと道の真ん中を歩いていたら、バイク集団がババババッと突然後ろから近づいてきてビックリ。きっと向こうもビックリだよね。

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麿針(摺針)一里塚
江戸日本橋から百十八里目

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摺針明神
弘法大師が自らの才能に疑問を持ち修行を諦めようと帰途につくなか摺針峠で、大切な針を折ってしまい新しい針を作ろうと斧を摺っている老婆を見て、修行を究めようと決心を新たにし、、神明宮を建立しました。

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ボーっと歩いていて旧道の入口を見逃してしまいました。この階段の道から下りてくるはずでした。下から見上げると草をかき分けないと歩けないような急階段です。で、反対を見ると旧道への案内板。ここはちゃんと見つけましたよ。この先はうっそうとした道です。ここにも倒木が。たぶんこれが最後の山道になりそうです。舗装道路に合流したら鳥居本宿はもうすぐです。

63.鳥居本宿
 多賀大社の鳥居がここにあったことから鳥居本と名がついたと伝わります。朝鮮人街道や北国街道の分岐、彦根城下に通じる要衝として栄えていました。懐中胃薬「赤玉神教丸」、西瓜、合羽(柿渋の赤)は「三つの赤」呼ばれる鳥居本の名物でした。 中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は293軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋場1、旅籠35軒。宿内人口は1448人(男726、女722)


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旅人の像
鳥居本宿場町の北入口に最近になって建てられた昔の旅人の像です。

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当時のままの道幅の旧道沿いには古い町並みが残っています。

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赤玉神教丸有川家
万治元年(1658)創業。多賀大社延命長寿の神の教えによる「神教丸」は下痢、食あたり、腹痛の妙薬です。そしてこの枡形のあたりに鳥居本の地名の由来になった多賀大社の鳥居がありました。


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近江鉄道 鳥居本駅
近江鉄道は、明治29年(1896)に彦根、貴生川間の区間で開業し、その後昭和6年彦根米原間も開業し同時に鳥居本駅も建設されました。建設当時の全国の平均的な建築様式をそのまま継承しています。と、街道を外れて駅まで来たのは、トイレがあると思ったから。醒井からずっとトイレがなくて困っていたのです。しかしトイレには鍵がかかり使用禁止になっていました! しょうがないので先に進みます・・・

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合羽所「松屋
享保五年(1720)馬場弥五郎が創業したことによる鳥居合羽は、雨の多い木曽路に向かう旅人が雨具として多く買い求め、文化・文政年間(1804~30)には15軒の合羽所がありました。江戸時代より重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現でその座を明け渡すことになり、鳥居本での合羽の製造は1970年代に終焉し、今では看板のみが産地の歴史を伝えています。

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鳥居本宿交流館 さんあか
交流館がありました。開いてる。誰もいなかったけど、どうぞご自由にと書かれています! やっとトイレがありました。よかったぁ! きれいに手を洗って一休み。朝、駅で買ってきたおにぎりで遅いお昼です。

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鳥居本宿には趣のある建物がたくさん残っていて昔の賑わいを感じさせます。でも、手入れが行き届いていないものも多く、町並みを保存していくのは難しいと感じさせられます。

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専念寺 太鼓楼
聖徳太子が創建という伝承のある浄土真宗の寺で、元は佐和山城下にありましたが、関ヶ原後に鳥居本に移りました。太鼓楼の屋根材は佐和山城の門扉を移築したものと伝わります。

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彦根
右は彦根城下に通じる道です。朝鮮人街道でもあります。この時点ではあまり実感がなかったのですが、彦根は本当に近くなんですよね。

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古宿
ガマの穂とガイドブックに書いてあるのはこのあたりかな。確かにガマの穂があります。

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小野小町
地元に伝わる郷土芸能「小野町太鼓踊り」の中に、小野小町が謡われていて、この地を誕生地とする伝承が残っています。「出羽郡小野美実(好美)は、奥州に下る途中に、小野に一夜の宿を求め、ここで生後間もない可愛い女児に出会った。美実はこの女児を養女にもらい受け、出羽国へ連れて行った。この女児が小町という。」 すぐ脇には明治中期まで茶屋があり、お多賀さん参りの客で賑わっていました。

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床山八幡宮
祭神は聖徳太子芭蕉昼寝塚、祇川白髪塚や、七福神が彫られた石、鬼瓦が立派な建物がある。と書かれていますが、この高さに注連縄が張られているのはなんだろう。入っちゃいけないんだろうか。小っちゃくなれば通ってもいいだろうか。よくわかりません。

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道標
「是より多賀みち」と書かれた道標と常夜燈。すぐ先にはコンビニ。少し歩けばスーパーもあります。もうこの先はトイレにも買い物にも困ることはありません。ただ歩道がない細い道の割に交通量が多いので、歩行注意です。

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かどや跡、井戸
岩清水神社前に「かどや」というお休み処がありました。およそ200年前、用材は欅を「チョンノ」(鉋の一種)で削り、くぎは使わずに建てられました。井戸は岩を掘り下げて、井戸側はなく、岩の間からにじみ出た水で文字どうりの「岩清水」で江戸時代旅人たちが、のどを潤し、一夜の宿で、旅の疲れを休めていました。


64.高宮宿
 「お伊勢に参らばお多賀に参れ、お伊勢がお多賀の子でござる。」といわれた多賀大社への門前町として賑わいました。室町時代から特産物として全国的に有名な高宮上布の集散地として、豊かな経済力を誇っていました。 中山道宿村大概帳(天保十四年・1843)によれば、宿内家数は835軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋場1、旅籠23軒。宿内人口は3560人(男1755、女1805)

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多賀大社常夜灯
踏切の手前にある常夜灯は、高宮宿の江戸口にあたります。


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町並みがいい雰囲気を出しています。

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多賀大社大鳥居
中山道と多賀みちの分岐点に立つこの鳥居は、多賀大社一の鳥居で、寛永12年(1635年)に建立されたものです。柱間は8m、高さは11m。

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多賀大社 御神燈
大鳥居から東へ3.7kmの多賀大社までの参詣道(多賀みち)の両側に、高さ約1.6mの四角柱の御神燈(常夜燈)が一丁(約109m)ごとに建立され参拝者の道案内をしました。というので、中山道から御神燈に導かれて多賀大社に向かうことにしました。

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御神燈があったのも最初の方だけでした。このあたりは工場が多いです。キリンビール工場の脇からは遠くに伊吹山が見えました。

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女飯盛木・男飯盛木
キリンビール工場を抜けた先の田んぼの中に立派な木が二本。遠目からもとても立派だったのでとりあえず写真を撮っておきました。調べてみると、二本はケヤキ多賀大社の御神木でした。やっぱり! 存在感が違います。奈良時代元正天皇の時代(717-724)、天皇が病を得たので、この木で作った杓子で、天皇に食事を捧げたところ、病気が治ったという縁起から飯盛木と呼ばれるようになったと云われています。女木幹周り9.75m、樹高15m、男木は幹周り6.32m、樹高15m、樹齢はともに約1200年と推定されています。飯盛木は「いいもりぎ」または「いいもろぎ」と読みます。街道ウォーカーはつい「めしもり」と読んでしまいました。

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常夜燈
直線だった多賀みちがカーブした先には、常夜燈がありました。

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絵馬通り
名神高速道路をくぐり多賀大社に向かいます。飛び出し看板は可愛らしい「たがゆいちゃん」
糸切り餅で有名なひしやもあります。でも、もう売り切れていました・・・


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御祭神は、伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)
古事記」によると、この二柱の大神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、日本の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。生命(いのち)の親神様であることから、古く「延命長寿・縁結び・厄除け」の神様として信仰を集め、鎌倉時代から江戸時代にかけては、武家や民衆にも信仰が広まり、多賀大社分祀社は全国239社を数えます。(多賀大社HPより抜粋)

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こちらは多賀大社駅前にある鳥居です。今日はここから近江鉄道に乗って宿のある彦根まで戻ります。

 今回は寄り道多めの中山道でした。醒井宿を抜けると鳥居本宿の交流館まで、トイレもコンビニも食事処もありません。醒井から番場が約4km、番場から鳥居本が約5kmだから、鎌刃城に寄り道なんてしなければ大丈夫なはず。鳥居本宿から高宮宿の途中はコンビニやスーパーがあるので問題なしです。
 番場宿は、ひっそりとした印象の宿場です。古い建物は残ってなくて碑が立っているのみです。寄り損ねましたが、たぶん一番の見どころは蓮華寺。鎌刃城への登り口でもあります。山城なのでそれなりの装備は必要。特に台風の後などは慎重に。源右衛門Caféで情報収集しようと思ったけど休みでした。お城めぐりのサイトを見ても、スタンプは押せるけどお店はやっていなかったと書かれていることが多いので、当てにしない方がよさそうです。
 鳥居本は、古い町並みが残ってる風情ある宿場町です。でも手入れの行き届いていない建物も多くそのまま朽ちてしまいそうなものも。もったいないと思いつつも、残していくのは大変なのは想像がつくので・・難しいよね。そしてこの町は、すぐそばが佐和山城のためか、石田三成推しです。あちこちに三成ののぼりが立っていました。そして遅筆なので今頃になってしまいましたが、10月7日には宿場祭りが開かれてはず。
 高宮宿は、途中までしか歩いていませんが、多賀大社門前町です。鳥居本宿から多賀大社の名前をあちこちで見かけるようになります。寄る予定はなかったので下調べもしていませんでしたが、気になって多賀大社まで歩いてしまいました。江戸時代の多賀大社はお伊勢参りと並ぶくらいに賑わったそうです。3連休の夕方、多賀大社には人がそれなりにいましたが、門前町にはほとんど人がいませんでした。車で来ると大社のすぐそばしか行かないのかな。かくいう私も中山道を歩かなかったら多賀大社のことも知らないままだったかも。観光地じゃないとはいえ、お伊勢さんに比べて知名度が圧倒的に低い気がします。
 中山道草津まであと50キロもありません。(東海道草津から京都は踏破済)翌日は続きを歩くつもりが彦根城見学で終了してしまいました。今年中にもう一度歩けるかわかりませんが、次回の遠征で完歩の予定です。