マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【中山道 4日目】 (北本駅) → 7.鴻巣宿 → 8.熊谷宿(熊谷駅)   2016.6.26 (日)

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勝願寺(鴻巣宿
浄土宗の関東十八檀林の1つ。十六世紀末、清厳上人によって中興されました。鷹狩の際に勝願寺を訪れた徳川家康は、中興二世住職円誉不残上人に帰依し三つ葉葵を使用する事を許可しました。家康の次男、結城秀康の越前移封により、領主不在となった結城城の御殿、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札、鐘などを寄進。明治時代の竜巻により御殿は全壊、その後の火災により本堂、庫裏、鐘楼、仁王門など殆どの施設や宝物はてしまいました。本堂と仁王門はその後再建さています。また、境内には丹後の国田辺城主牧野家や関東郡代伊奈氏、真田家の嫁いだ小松姫仙石秀久などの墓もあります。


(北本駅) 7.鴻巣宿8.熊谷宿(熊谷駅)  約22km

 中山道を歩き始めたら、やっぱり続きを歩きたい!でも予想最高気温は30度。熱中症になっちゃうかなぁ。でも歩きたいなぁ。最低気温は20度。朝早くなら大丈夫かなぁ、といつもより少し早起きして北本駅7時半前には到着。空が高くて秋みたいにさわやかな風。涼しくて気持ちがいい。一日こんなお天気が続けばいいのになぁ。


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北本駅東口前からすぐの道を斜めに入って踏切を渡り線路の反対側に続く道が古中山道になります。線路脇を歩いていると一里塚の看板が見えてきました。


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馬室原の一里塚(西塚)
案内板にしたがって細い道に入っていくと江戸から11里目の一里塚が西塚のみ残っています。東塚は明治16(1883) 高崎線敷設の際に取り壊されてしましました。


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鴻巣宿加宿 上谷新田碑
第二中山道踏切を渡り県道に戻ります。鴻巣宿加宿の案内柱を過ぎると人形店が目につくようになります。このあたりは江戸時代より雛人形作りが盛んで人形町と呼ばれています。そんなお店の前に真っ赤な橋。その名も長寿橋。一度渡ると一年長生きできるそう。それも京方から渡らないとダメなんだって。もちろん渡ってきました。すぐ先にある「ひなの里」では人形の歴史が学べるそうだけれども今日はまだ開館前でした。


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7 鴻巣宿
慶長7(1602) 本宿村の宿場を移して鴻巣宿となりました。移転の理由は、忍道や吉見道などの追分に近かったことや文禄2(1593)に鷹狩のための鴻巣御殿建設、徳川家ゆかりの勝願寺があったためといわれています。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数566軒、うち本陣1脇本陣1、旅籠58軒、人口2274人、宿長約1.9km


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小松姫の墓(勝願寺)
本町交差点手前の道を左に入ると勝願寺があります。参道脇には「真田丸 小松姫 ゆかりのまち鴻巣」と書いてあるのぼりがたくさんたっていました。ここ勝願寺には、鴻巣で亡くなった小松姫のお墓があります。正覚寺(沼田)のお墓のほうが立派でしたね。小松姫のお墓は上田や松代にもあるそうです。そういえば正覚寺では立葵、勝願寺は三つ葉葵と、お寺のどこにも六文銭の家紋がみつかりません。それにしてもなぜ信重の室の墓が一番大きいのかが気になります。
写真右手から、真田小松姫、真田信重(信之の三男)、信重の室(鳥居右京亮の六女)仙石秀久


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街道歩きの気分が盛り上がります。


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鴻巣駅前に続く交差点脇には案内板が設置されています。


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鴻神社
鴻巣宿の総鎮守。明治6年にこの地ならびに近くにあった氷川社、熊野社、雷電社の三社を合祀したたものです。地名の由来は、古代に武蔵国造(むさしくにのみやつこ)である、笠原直使王(かさはらのあたいおみ)が、現在の鴻巣市笠原のあたりに居住し、一時この地が武蔵の国府となったことから、「国府の州(こくふのす)」が「こふのす」となり、後に「こうのとり伝説」から「鴻巣」の字をあてはめるようになったと云われています。


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加美の交差点で左の道に入り、第三中山道踏切を渡ります。
鴻巣はわかりやすい案内がたくさんあってありがたいです。朝は涼しかったけどだんだんと暑くなってきました。鴻巣駅前を過ぎると休憩できるような場所がない。休憩したいなぁと思っていたら箕田観音堂の先にスーパー(ベルク)が見えてきました。ここは9時開店。イートインもあって冷房の効いた店内でちょっと休憩。


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明治期に、当時箕田郷内に祀られていた氷川社、八幡社など二十余社のお柱を併合し、箕田郷の郷社として八幡社のあった場所に祀られています。境内にある箕田碑には、武蔵武士発祥の地、箕田源氏の歴史が刻まれています。


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箕田追分
彩の国さいたま平成の道標が建っています。ここはY路を左に進みます。右は忍を経て館林に至る館林行田道です。道の左側には地蔵堂もあります。


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前砂交差点
前砂村碑を過ぎ、前砂交差点では道標にしたがって吹上駅方面に進み線路沿いを歩いていきます。第四中山道踏切を渡りすぐ左へ。その先のお地蔵さんのY路では右に進み県道に合流します。吹上駅前をすぎ、吹上本町交差点で案内柱にしたがって左に曲がります。


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郵便局の先にある跨線橋を渡ります。
橋の下には中山道間の宿碑。鴻巣宿と熊谷宿の間は16㎞程と長かったので、吹上宿は間の宿として賑わいました。


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跨線橋を渡り線路脇の道を歩いていきます。
奥には山が連なって見えます。ちょっと雲が多くなってきたかな。


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榎戸堰
小さな公園になっていて一休みができます。この先荒川土手に出るとトイレは無いそう。私は吹上駅で行ったからいいかな。熊谷宿まで2里と刻まれた案内柱があります。


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権八地蔵
荒川の土手の下にある地蔵堂。歌舞伎鈴ヶ森に登場する白井権八のモデル平井権八が、地蔵の前で金目当てに人殺しをした際、地蔵に口封じをすると、地蔵が「吾は言わぬが汝いうな」と口をきいたと伝えられています。鈴ヶ森の話は知らなくて調べてみると、実在の権八は、遊郭通いの金欲しさに130人程を殺したっていうからびっくり。鈴ヶ森で処刑されたのが延宝7(1679)で享年25歳とか。何かで言ってたけど、貞享4(1687)五代将軍徳川綱吉が生類憐みの令を出すまでは、戦国時代の名残なのか人殺しは当たり前、捨て子も当たり前で人の命はとても軽かったみたい。何かと悪名高い生類憐みの令ですが、実は大きな意識転換のきっかけとなっているんですって。


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荒川土手
権八地蔵から土手に上がります。途中で外側の下に分かれる道が度々あるけど、そちらが本来の旧道だそう。でも下の道は車も通るし、見晴らしも悪いので、土手の上の道を歩きます。それにしても川は全然見えないんだぁ。ほとんど河川敷。そういえば鴻巣は川幅日本一(2537m)って宣伝してたなぁ。


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土手の脇には、いろはがるたがたっています。
「し:下に下には 大名行列 中山道」「な:長土手に 馬子唄のどか 春の風」 のどかです。空が広いです。ずっと奥には山が連なり関東平野に居るんだって実感がわいてきます。浅間山や富士山が見えるそうだけど、雲が多くてよくわからないや。


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セメント工場や小学校が見えてきて、土手の道と下の道が離れていきそうなところで下に下ります。久下堤碑の前を通りしばらく住宅街を歩きます。久下新川村は舟運と養蚕で栄えた。と久下公民館の案内板に書かれていました。この屋敷もそんな家の一つなのかな。


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久下権八地蔵
旧道を歩いてくと細い道の先に荒川の土手が見えてきます。土手に向かって歩いていくと小さな公園に熊谷堤の碑や道標。そして脇にはここにも権八地蔵があります。ここでも人きりをしたのかしら。旧道らしき道は行き止まりになっているので、土手に上がります。そういえば熊谷市に入ってからは親切な道案内がなくなりました。


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荒川の土手の上には、久下の渡し・冠水橋跡の碑があります。
対岸との交通手段として渡しに変わり昭和30年に冠水橋が架けられ、平成15年まで利用されていたそうです。新久下橋が完成して今はありませんが、残っていれば渡ってみたい橋です。少し下流にできた新しい橋は緑色で風景に溶け込んでます。


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みかりや跡
道標はありませんが、土手を右に下っていくと民家の塀の脇に案内板がにょきにょき。ここには柚餅子と鮎うるかが有名な茶屋がありました。「鮎うるか」ってなんだろうと思って調べてみた羅鮎の塩辛みたいなものらしい。そしてかるたで気になった「か:カッパの妙薬 みかりやさん」・・・カッパの妙薬? 全国各地に様々に伝わる話があるようで、助けたお礼に切り傷や打身によく効く薬の調合を河童が教えてくれるらしい。そんな薬も売ってたんだね。


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ムサシトヨミの生育地(熊下橋?)
ムサシトヨミはトゲウオ科に属する淡水魚で、今では熊谷にしか見られなくなってしまったそうです。湧水を集めて流れている元荒川の水はとてもきれいです。


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八丁の一里塚跡
日本橋より十六里目の一里塚跡。この先の熊谷駅手前で秩父鉄道とJRの踏切を渡ります。今日は何回踏切を越えてるだろう。高崎線中山道を分断してしまったのがよくわかります。熊谷でお昼をと思っていたのですが、あまりに暑くて食欲がわかない。冷房の効いたショッピングセンターでちょっと休憩。一息ついたら歩き始めます。銀座一丁目の交差点で国道17号線に合流しました。


8.熊谷宿
忍藩領で陣屋が置かれていました。秩父街道の追分や荒川の舟運を控え大いににぎわっていました。近隣助郷村の反対で飯盛り女は置かれませんでした。中山道宿村大概帳(天保14年・1843)によると、宿内家数1715軒、うち本陣2脇本陣1、旅籠42軒、人口3236人 宿並は明治17(1884)の大火、昭和20(1945)
の大空襲で跡形もなく焼失してしまいました。


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提灯
719日から行われる「熊谷うちわ祭」に向け沢山の提灯がかざられていました。関東一の祇園といわれる賑やかなお祭りだそうです。


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高城神社
武蔵国大里郡の総鎮守。境内の青銅製常夜燈は天保12(1841)に奉納されたもの
 

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八木橋デパート
店内を中山道が通っていることで有名なデパートです。デパートの中に中山道を通しちゃうなんて粋だよね。西口が熊谷宿の京口にあたります。


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そしてデパート前にはニュースでもおなじみ巨大温度計。
この時点では28,4℃になってたけど、、帰宅して天気予報を見たら最高気温は31℃。歩いていた時は30℃位のはずで暑いわけだ。時間はまだ13時をまわったところだけど、暑いので今日の中山道歩きは中止。籠原駅まではまだ6キロ近くあるもの。翌日は仕事だし。実は前に暑いけど大丈夫だろうと歩いて軽い熱中症になったことがあるんだ。デパートでちょっと涼んで戻ることにしました。星渓園によって帰ることにしましょう。


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星渓園
熊谷宿の本陣だった竹井家の別邸としてつくられた回遊式庭園。この日はガイドさんが説明をしてくれました。玉の池の湧水の話や、加藤清正が朝鮮から運んできた石の話、建物やお茶の話と盛りだくさん。ガイドさんは物知りですね。積翠閣で庭を眺めながらガイドさんの話の聞いていると暑さも忘れてゆったりとした時間が流れました。


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熊谷うちわ祭
熊谷駅の駅名票にはお祭りの写真が使われていました。


 星渓園から星川沿いをぶらぶら歩いて熊谷駅に戻ってきました。やっと食欲もでてきた。改札口近くの日高屋で簡単に食事を済ませて横浜に戻ります。「あついぞ!熊谷」にしては暑さが足りなかったけど、それでも30℃は十分に暑い。予定より歩けなかったけど、暑い中、無理して歩いて、50代中年女性ウォーキング中に熱中症で倒れる。なんてニュースになったら大変だもの。ここはのんびりといきましょう。