☆データ☆ (100名城ガイドブックより)
・城地種類 平山城
・築城 永正9年(1512)ころ 朝比奈康熈・康能
・主要城主 朝比奈氏、山内氏、松平(久松)氏、青山氏、
小笠原氏、太田氏
(登城日: 2015年9月05日)
戦国時代の1500年ごろに駿河守護の今川氏親が、遠江支配の拠点として重臣の朝比奈康熈に命じて現在の掛川城の北東にある子角山に築城したといわれています(掛川古城)。手狭となったため永正9年(1512)に現在の地に掛川城が築かれました。その後、今川義元が織田信長に討たれると、永禄11年(1568)義元の子氏真が甲斐武田氏に追われ、掛川城に籠りました。徳川家康が攻めて長期にわたる攻防の末、和睦により開城させ、石川家成を入城させて武田氏侵攻に対する防御の拠点としました。天正18年(1590)家康の関東移封により山内一豊が入城。一豊は城の拡張や城下町の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守閣をつくりました。一豊の転封後は家康の異父弟の松平定勝や、太田増刊の子孫太田氏など譜代大名の居城として栄えました。しかし、嘉永7年(安政元、1854)安政の東海大地震により、御殿、太鼓櫓などの一部を除き、天守閣など大半が損壊し再建されることなく明治維新を迎え、明治2年(1869)廃城となりました。その後公園となっていましたが、平成6年(1994)一豊の転封した高知城天守を参考に木造で再建されました。
四足門
調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図を元に復元されました。
本丸広場
太鼓櫓
城下に時を知らせるための大太鼓を納めてあった建物です。
天守への登城路(右)と二の丸への通路(左)
天守丸
天守閣内部
天守からの眺め(東)
二の丸御殿 龍華院大猷院霊 牧の原台地 晴れていれば富士山も見えるはず
天守からの眺め(南)
大手門 三の丸広場 太鼓櫓 掛川駅
天守からの眺め(西)
天守からの眺め(北)
県立掛川西高校
霧吹井戸
今川氏真が逃げ込んだ城を落とそうと家康が攻撃を仕掛けた際、井戸から立ちこめた霧が城をすっぽりと覆い隠し、徳川軍は攻撃できなくなったといわれています。
御殿
二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で現存する数少ない城郭御殿の一つです。安政の東海大地震で倒壊したため、安政2年(1855)から再建されたのが現在の御殿です7棟からなる書院造で部屋がそれぞれの用途に応じ約20部屋に分かれています。
大名行列の模型
御殿内にある大名行列の模型。この人数での移動は大変だったでしょうね
十露盤堀
本丸を囲む重要な堀。名称の由来は、水がたまった部分が算盤の箱のように見えることと考えられています。
三日月堀
本丸門の前面に配置された三日月状の堀。深さは8メートルありました。
大手門
平成7年(1995)に復元されたもので、大きさは間口7間(約12.7メートル)、奥行3間(約5.4メートル)の二階建の楼門づくりの櫓門。実際は現在地より50メートルほど南にありました。
竹の丸
竹の丸には掛川城の北門の守りを固める位置にあり、家老等重臣の屋敷があったといわれています。明治36年(1903)掛川城下で葛布問屋を営んでいた松本家が竹の丸に本宅を建てました。昭和11年(1936)松本家が東京へ転居するに当たり掛川市に寄贈されました。
龍華院大猷院霊屋
今回で3回目の登城です。山内一豊が転封した高知城天守を参考に、日本で初めて木造で天守閣を復元した掛川城。こぢんまりとしたとてもきれいなお城です。御殿も現存しているので、当時の様子を想像しながら歩くことができます。山内一豊のお城というイメージが強いのですが、10年余りしかいなかったのですね。そして今回初めて訪れた竹の丸。家屋自体は掛川城と直接関係するわけではありませんが、明治期を代表するとても素敵な建築です。式台のある玄関、火灯窓、一枚板の板戸、ステンドグラスやバルコニー。建築については良くわからないのでガイドさんの受け売りですが、贅沢でおしゃれなお屋敷です。そして建てられたころは天守が無い時代だったにも関わらず、貴賓室から見る掛川城はちょうど誂えたよう。ここは来てよかったです