☆データ☆ (100名城ガイドブックより)
・城地種類 山城
・築城 文治元年(1185) 加藤景廉(伝)
永正年間(1504-21) 遠山氏
天正3年~慶長5年(1575-1615) 河尻秀隆、
各務兵庫、松平家乗
・主要城主 遠山氏、秋山氏、河尻氏、団氏、各務氏(城代)、
(登城日: 2015年8月9日)
標高717mの山頂に建つ全国の山城の中で最も高地にある、日本3大山城の一つです。源頼朝の重臣加藤景廉が築いたと伝えられていますが、根拠は不明です。永正年間には遠山氏の居城として築かれていました。戦国時代には、美濃・信濃・三河の国境近くにあることから、武田信玄と織田信長による争奪戦が繰り広げられましたが、天正3年(1575)に最終的に織田方にくだり、岩村遠山氏は滅亡。関ヶ原合戦までの間に目まぐるしく城主が交代し、慶長6年(1601)に松平家乗が城主となり近世岩村藩が成立。大給松平家2代、寛永15年(1638)に丹羽氏信が入り5代、元禄15年(1702)に大給分家松平乗紀が入封し7代継承し明治維新を迎えました。
藩主邸(太鼓櫓と表御門 平成2年再建)
藤坂
藩主邸から一の門まで続く坂。フジの大木があったことが名の由来
初門
U字に大きく曲げられていて、有事の際には通行を遮断するように臨時の門を構えるようになっていた
一の門
二層の櫓門で、大手一の門とも呼ばれる
土岐門
畳橋
大手門跡
竜神の井
霞ケ井
霞ケ城と言われる元となった井戸。敵が城を急襲した時この井戸へ城に秘蔵の蛇骨を投げ入れると霧が立ち込め城を覆い隠したという
中世の城主遠山氏の氏神で始祖加藤景廉を祀る
菱櫓
山の地形に合わせて積んだ山城特有の菱形の石垣。中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な遺構
六段壁
本丸の北東面に雛壇上に築かれた六段の見事な石垣。元は最上部のみの高石垣でしたが、崩落を防ぐために補強の石垣を積むことを繰り返し現在の姿となった
長局埋門 (ながつぼねうずみもん)
東曲輪
旧城下町方面
本丸
昇龍の井戸
埋門
出丸
本丸の南西の防衛を担う重要な曲輪で、2棟の二重櫓、3棟の多門櫓で厳重に固められていた
出丸から埋門へ続く道
南曲輪
二の丸跡
岩村城は井戸がいくつもあり、水が豊富で石垣も強固なため力ずくでは落とせなかった城です。天正元年、城主遠山景任を亡くし未亡人となっていた織田信長の叔母、おつやの方(女城主)が織田信長の五男御坊丸を養子として岩村城を守っていました。武田信玄の家臣秋山信友率いる武田軍に攻撃され、援軍を請うものの一向一揆などで手いっぱいの織田からの援軍は来ず、領民と家督を守るため信友と結婚し無血開城をすることとなりましたが、信友は条件を破り御坊丸を人質として甲府に送ってしまいました。長篠の戦後の天正3年、織田軍の攻撃に耐えきれず、城兵の助命を条件に開城しましたが、御坊丸の件で信長の怒りを買っていたため、約束は果たされず、城主、おつやの方は磔に、城兵もことごとく殺されてしまいました。おつやの方が景任に嫁いできたのは、信長の政略結婚による3度目の結婚。自分で決断した4度目の結婚で信長に滅ぼされるという悲話。城内にも敵だらけだった信長には裏切り者は許せなかったのでしょうね。