開店前で人通りもさほど多くない17号線を日本橋から北へと向かいます。ずうーーっと歩いていくと中山道。でも今日は数百メートル歩いて、「室町三丁目南」YUITOの角を右へと曲がります。真っ直ぐ歩いていくと車道にさえぎられてしまいますが大丈夫。地下道をくぐれば反対側へと抜けられます
道標
浅草橋
子供が一生懸命見上げていたのでふと見ると、バンダイの本社でした。「月にかわっておしおきよっ!」
雷門
駒形橋から6号線とわかれ雷門へと進みます。浅草寺にお参りをしようと思ったけどGWの真っ最中。すっごい人出です。お参りをしたつもりで吾妻橋の交差点から江戸通りに戻ります。言問橋西の交差点まで来たら左斜めの道(464号線)を進みます
東都名所の案内板にひかれて右手に折れるとこんもりとした森。待乳山聖天です。境内の社務所には大根の山。「大根は深い迷いの心、いかりの毒を表し、大根をお供えすることによって聖天様が心の毒を清め、心身を健康にして、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合をご加護いただける」そうですよ。また、この辺りは池波正太郎生誕の地でもあります
山谷堀公園
今は暗渠となり公園になっていますが、江戸時代はお大尽が吉原通いの為に隅田川から通った堀だったそうです。この辺りには低所得者や東北に旅する人の木賃宿が軒を並べ、いつのまにか日雇労働者用の簡易宿泊所が立ち並ぶドヤ街になったとか。歩いていると何となくわかる。そして外国人の姿も。最近は安い宿を探して大勢の外国人が来ているんだって。英語の看板を掲げた宿も多く見かけました。また、この先の泪橋は小塚原刑場に送られる罪人との別れを惜しんだ場所。現在は暗渠となっている思川に架かった橋の名です。そういえば東海道を歩いているときも鈴ヶ森刑場の手前に泪橋があったよね
首切地蔵(延命寺)
ここは小塚原刑場があった場所。寛保元年(1741)、刑死者の菩提を弔うため建てられました。遺体は適当に埋められていたらしく夏は腐敗して地獄絵そのものだったらしい
奥の細道の旅立ちの地、千住。松尾芭蕉の像が迎えてくれます。この辺りは「やっちゃ場」と言われ、多くの問屋のセリ声が「やっちゃいやっちゃい」と聞こえてくる場所(市場)からきたといわれています。現在も千住の魚河岸、足立市場があります
千住宿 歴史プチテラス
天保元年(1830)に建築された土蔵でギャラリーとして活用されています
一里塚跡(二里目)
金目鯛塩焼き定食(菜野)
千住宿は商店街も活気があって楽しい街歩きができます。今日のお昼ご飯は美味しい金目鯛をいただきます。それにしても今日は暑い!冷房の効いた店内は天国です
横山家住宅
旧地漉紙問屋「松屋」は江戸時代後期の建築
道標
荒川を渡ります
橋を渡った後で左に折れるので、千住宿の街道をまっすぐいったら土手に登らないで、高架下を通り歩道橋を登って千住新橋を渡ります
千住新橋
日本橋からここまで9キロ。距離ポストは歩く励みになります。
荒川は名前の通り「荒ぶる川」で昔から氾濫と繰り返し川筋をしばしば変えて流れていたそう。そこで大正2年(1913)から17年ががりで荒川放水路を整備し、これが荒川の本流となりました。変遷を調べてみるのもいいかも。荒川のアンダーザブリッジにはグランドが広がりスポーツ少年少女が暑い中汗を流しておりました。ちなみに荒川アンダーザブリッジのモデルは先ほど通ってきた隅田川に架かる千住大橋とかいう話も・・・