☆データ☆ (100名城ガイドブックより)
・城地種類 平山城
・築城 健保2年(1214)ころ 馬場資幹
文禄2年(1620) 佐竹義宣
・主要城主 馬場氏、江戸氏、佐竹氏、武田氏、徳川氏
(登城日: 2015年3月15日)
大手門跡・大手橋
大手門は佐竹義宣が慶長6年(1601)にたてたもので、徳川の時代でも水戸城の入口の門として使われていましたが、明治初年に取り壊されました。大手橋は慶長元年(1596)に濠にかけられた橋で徳川初代藩主頼房が修築してから大手橋と呼ばれています。
二の丸と三の丸の間にかけられた大手橋の下は現在、県道232号になっています。
水戸城址 塁及び濠
水戸城は石垣を使わず、台地を堀削して堀と土塁によって築かれています。
水戸第二中学校
なんと中学校の校門です。二の丸には幼稚園、小学校、高校が建てられていて、校門や塀、建物などが城を模すように建てられています。
大日本史編纂の地
徳川光圀の大事業であった「大日本史」編纂事業が行われていた旧彰考館跡に建てられています。「大日本史」は徳川光圀によって開始された日本の歴史書で、光圀の死後も水戸藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成しました。編纂のため光圀は、多くの助さん格さんを日本中に派遣したところから後の黄門様の話につながっていきます。二の丸には他にも御三階櫓と呼ばれる実質上の天守もありましたが、第二次世界大戦の空襲で焼失しました。中学校校門の脇に建つ記念碑の隣には二の丸展示館が設置されていて、出土品や水戸城に関する資料が展示されています。
中学校脇にある大きなシイ。戦国時代から自生していると伝えられ樹齢約400年。
本丸と二の丸の間の濠は水郡線の線路になっています。
線路脇をつき辺りまで歩いて左に折れ二の丸、弘道館を目指すのが今回のハイキングコースだったのでそのまま歩いてしまったのですが、右に折れ橋を渡ると本丸跡。水戸一高の敷地内には、佐竹氏時代の水戸城藥医門が残っています。・・・見損ねました。
水戸と言えば黄門様。テレビドラマと偕楽園の梅の写真とが相まって、ほんわかとしたイメージでしたが、改めて調べてみると幕末の水戸藩はつらい状況が多かったですね。幕末という時代は、それぞれがより良い未来を考えながら行動をしていったのでしょうが、武力や弾圧で異論を封じ込めてしまうことがたった150年程、いや戦前まで当たり前の状況でもあったわけです。世界を見渡せばいまだ同じような状況は続いていて、戦争をしない現在の平和な日本の国はとても稀有で尊いものだと思います。戦争をする普通の国になんてならずに、ガラパゴスでいいじゃないですか。武力を使わずに平和を推進していくがいいと思うのになぁ。想像できることは実現できることなのですから。なんていろいろ考えてしまう今日この頃です。