マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 上道】5日目 永山から国分寺  2021.10.24(日)

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分倍河原古戦場跡

分倍河原の戦い

元弘三年(1333)五月、新田義貞上野国で討幕の兵を挙げ南下、小手指ヶ原、久米川の戦で優勢に立ちました。幕府方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総師として新田勢を迎撃、新田勢は敗れて所沢方面に逃れました。(5月15日)しかしその夜、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、16日未明再び分倍の北条勢を急襲、一路鎌倉を攻め、22日に鎌倉幕府は滅亡しました。

 

永山小田急永山/京王永山駅霞ノ関(関戸) 分陪 → 武蔵国分寺尼寺 → 泉町 → 武蔵国分寺 → 姿見の池 → 国分寺駅 (約14km)

 

 青空の下、見どころいっぱいの鎌倉街道を歩きます。

 

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永山駅から鎌倉街道に戻ってきました。ガイドブックでは一本奥の道を乞田交差点まで行くようになっていますが、途中に信号がなくて回り道をしないとならないようなので18号線を進み、乞田交差点から斜め右、市役所に続く旧道へ入ります。

 

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多摩市役所の入口に「古市場」の標柱があります。戦国時代にこの辺りで市が開かれていたそうです。いったん都道に出てからまた左手の旧道へ戻ります。一方通行の標識の脇に鎌倉古道の案内板がありました。

 

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沓切坂

案内板の先には、古道らしい切通の道が少し残っていました。この坂は「沓切坂」といわれ、馬の沓が切れるほどの急坂で、新田義貞の馬の沓も切れたとか。今は緩やかな坂になっています。途中の左手階段上に庚申塔がありました。

 

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熊野神社

坂を下り都道に合流して進んでいくと、左手に熊野神社の鳥居と「霞ノ関南木戸跡」の案内柱。延徳元年(1489)に熊野三社から勧請したといわれています。古くから交通の要所で、鎌倉時代の建歴三年(1213)、鎌倉街道に設けられた関所の木戸があった場所です。「関戸」という地名が今も残されています。参道脇には木柵に使われていた丸柱が再現されています。この関所が幕府軍最後の砦でした。

 

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鎌倉街道の案内がありました。関戸合戦で討死した安保入道のお墓は、個人宅の奥にあるため見ることが出来ません。観音寺の脇には関戸の北柵があったとされています。バス停の近くの石段の上にある石塔は、無名戦士の墓とされています。道路拡張工事のため移設されたものです。

 

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関戸古戦場跡

元弘三年(1333)5月16日 鎌倉幕府軍の北条泰家新田義貞との熾烈な戦いが繰り広げられた場所です。分倍河原で一度は新田軍を退けた北条泰家ですが、未明に新田軍の急襲を受け、鎌倉幕府の関所霞ノ関一帯(関戸)で防衛するものの敗れ、6日後の5月22日に鎌倉幕府は滅亡してしまったのでした。

 

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多摩川

関戸橋で多摩川を渡ります。

 

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分倍河原古戦場跡

そのまま進んで中河原駅を過ぎたところで左の旧道へ入ります。しばらく進むと「分倍河原古戦場跡」の案内矢印がありました。案内に従って遊歩道を進むと分倍河原古戦場跡の碑が見えてきます。ここで北条勢がもうひと頑張りしていれば歴史は変わったのでしょうか。

 

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分倍(分梅)

街道に戻り分梅までやってきました。旧鎌倉街道の案内板がありました。案内板では分倍河原駅に続いていますが、ガイドブックでは真っすぐ進むようになっています。ここから道は坂道になります。この段差は府中崖線。坂の下の「光明院坂」の説明には、「この坂道は、分倍街道とも鎌倉街道とも呼ばれる古街道です。」と書かれています。まっすぐ続く坂道が鎌倉街道で、駅に続く道は古甲州街道のようです。八雲神社の手前の「陣街道」の案内柱には「軍勢が陣立てをして往来したことに由来し・・・鎌倉街道、浅間道、分倍道の別名があります。」と書かれています。また、光明院は正和五年(1316)に北条家家臣肥後守 小川義継が祈願所を建てたのを開基としており、少なくとも鎌倉時代末まではさかのぼれるお寺です。

 

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八雲神社

南武線を渡ると左手に分梅地域の鎮守があります。古くは天王宮とし祀られていましたが、明治初期の神仏分離令により八雲神社として改号されました。天皇宮の御祭神は牛頭天王八雲神社の御祭神は素戔嗚尊で合祀されてます。神社の裏には高塚古墳のひとつ天王塚古墳があります。

 

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板碑

八雲神社脇にある板碑の案内には、元応元年(1319)に、大蔵近之という人物が亡き父の17年忌追善供養のために建てたものと考えられています。風化が著しくなり、現状での保存が困難になったため、現在は複製を設置しています。と書かれています。

 

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屋敷分浅間神社

御祭神は、宇迦之御魂命、木花開耶姫命。屋敷分村の鎮守社でした。国府時代の国衙の在庁官人で、その後に六社宮(大国魂神社)の神官になる鹿島田氏、佐野氏などの屋敷があったことが、屋敷分の地名の由来になります。鳥居脇の庚申塔は、延宝弐年(1674)の建立で、府中市では最古となります。

 

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美好町三丁目西の交差点で、旧甲州街道と合流します。何にも案内はありません。甲州街道を歩いた時は何も気が付かないで通り過ぎてます。高札場のところだとばかり思ってました。信号を渡りそのまま分梅通りを進んで、20号線に出たら右に進み次の信号(美好町二丁目)で左に折れ、美好町通りを東芝府中事業所南門の前まで真っすぐ進んでいきます。街道は工場の中を貫いていますが、そのまま歩くことはできないので右に曲がり迂回していきます。武蔵野線跨線橋で渡り、いったん府中街道に出ます。工場沿いに歩いていきます。右手にみえる府中刑務所が途切れた刑務所角の信号で左手の横街道に入り、武蔵野線のガードをくぐります。進んでいくと左手に東芝の北門が見えてきました。大きな工場です。三分割戦略とか発表しましたが・・・どうなるんでしょうね。それはさておき、北門の前の道を右に曲がり、東八道路を渡って、右、左と進んでいくと武蔵国分尼寺跡につきます。

 

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武蔵国分尼寺跡(金堂跡)

奈良時代中期、聖武天皇の詔により官立寺院として国分寺とあわせて建立された国分尼寺の跡です。尼寺の規模や基礎工事がわかるよう柱や塀、礎石などが復元されています。

 

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鎌倉街道

国分尼寺の崖線上には、鎌倉街道と伝わる切り通しの道が残っています。

 

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武蔵台遺跡公園

鎌倉街道を抜けた住宅地の中に縄文時代の遺跡が残されています。4000年前からこの辺りにはムラがあったんですね。

 

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泉町交差点

武蔵台遺跡公園から真っすぐ北上すると都道の高架下に出ます。右手の階段を上り、都道に出て武蔵野線を越えると泉町の交差点。街道はここから北上していきますが、ここで街道を外れて寄り道です。

 

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東山道武蔵路跡(武蔵国分寺跡北方地区)

交差点から左に入った先のマンションと老人施設の間に東山道武蔵路の遺構が残っています。道路幅が12mもある広い通りです。東山道は七世紀後半、諸国の国府と都を結ぶ道路網のひとつです。武蔵国は行政区として東山道に配属されましたが、本道から南へ大きく外れた位置にあるため、上野国新田駅付近から武蔵国府へ南下する支路、東山道武蔵路が整備されました。しかし不便であるということから武蔵国宝亀二年(771)に東海道へ所属替えとなり駅路としての使命を終えました。それにしても広い道路です。この東山道武蔵路の左手に武蔵国分僧寺、右手に尼寺、遠方には武蔵国府の伽藍が見えていたのでしょうか。総延長約6,300㎞にも及ぶ七道を整備する大土木事業。奈良時代、すごいですね。このまま武蔵国分寺へと足を延ばしましょう。

 

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武蔵国分寺 薬師堂

建武二年(1335) 新田義貞の寄進により僧寺の金堂付近に建立され、宝暦年間(1751-1763)に現在の地に再建されたものです。木造薬師如来坐像は、平安末期から鎌倉初期の製作と考えられています。

 

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国分寺仁王門

宝暦年間に建造されたもので、使用している木材の一部に新田義貞が再興した薬師堂の古材が使用されていると伝えられています。この辺りの段差が国分寺崖線かな。

 

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国分寺楼門

米津出羽守の下菩提寺として建立された米津寺(東久留米市)の楼門を明治28年に移築したものです。

 

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医王山最勝院 国分寺 (真言宗豊山派

分倍河原合戦の際に新田義貞により焼失させられた国分寺は、義貞の寄進により薬師堂は再建されましたが、本道は享保十八年(1733)に再建されています。現在の本堂は昭和62年(1987)に改築されたものです。

 

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武蔵国分寺跡(金堂跡)(七重塔跡)

天平十三年(741) 聖武天皇鎮護国家を祈念して諸国に国分寺を建立しました。国分寺崖線の麓の豊かな湧水を持つ一帯に、東西1.5㎞、南北1㎞ 諸国の国分寺跡と比べても最大級の規模と荘厳さを誇った武蔵国分寺跡と関連する遺跡です。鎮護国家のためとはいえ、これだけの規模のものを全国に建立するには財政の負担も大変なこと。律令国家の成立には仏教の力が必要だったわけで、宗教と権力はいつの時代でも繋がってしまうのです。まぁそれ以上に「長屋王の変」が大きな要因ともいわれていますが・・。それにしても、新田義貞国分寺に火をかけて焼失させてしまったというのは何とも残念なことです。

 

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ざる菊がきれいです。

 

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おたかcaféで一休み

 

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おたかの道湧水園

入口にある旧本多家住宅長屋門は、国分寺村の名主家表門と隠居所を兼ねていて江戸時代末期に建てられました。園内では湧水源を観察できます。野川の源流のひとつです。

 

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湧水のきれいな流れの散歩道がつづきます。

 

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真姿の池湧水群

嘉祥元年(848) 重い病気に苦しむ絶世の美女 玉造小町が、国分寺薬師如来に祈り、お告げにより池の水で身を清めるとたちまち病気が治り元の美しい姿に戻ったと伝わっています。

 

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国分寺崖線武蔵国分寺公園)

国分寺崖線の崖の上に上ってきました。崖の下からは15mほどの高さがあります。何万年も昔、多摩川の流れが削ってできた地形で約30㎞の長さで続いています。崖上には、旧国鉄の中央鉄道学園、郵政省の宿舎などの跡地を整備して武蔵国分寺公園となっています。

 

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東山道武蔵路

ふれあい橋を渡って都道に次の信号を曲がると歩道の広い通りに出ました。東山道武蔵路跡です。最初に見た遺跡でも広いと思ったけど、こうやって残してもらえると、奈良時代にこの幅で道がずっと続いていたことが実感できて圧倒されます。道の奥には古道の再生展示もあります。道は中央線で遮られてしまうので、いったん府中街道にでて線路の反対側へまわります。

 

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姿見の池 東山道武蔵路

東山道武蔵路は、姿見の池の東側に続いていました。この池は、かつては付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込んで清水を湛え、宿場町であった恋ヶ窪の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていたことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。「一葉松」の伝承では、畠山重忠と恋に落ちた遊女の夙妻(あさづま)太夫に、大夫に横恋慕する男が諦めさせようと重忠が西国の戦で討死したと嘘をつき、悲しんだ大夫が身を投げたといわれています。きれいに整備された遊歩道が続くままに国分寺駅へと中央線沿いに歩きました。

 

 今回の街道歩きは、関戸や分倍河原合戦跡などの鎌倉幕府滅亡へとつながる戦い、奈良時代律令国家(鎮護国家)、そして最後は畠山重忠との悲しい恋物語と見どころ満載の街道歩きとなりました。奈良時代からずっとこの道をたくさんの人が行き来していたんですね。

 まずは、最後の防衛戦ともいえる分倍河原合戦。一度は勝利したものの新田義貞を討ち取ることまではできなかった幕府軍。義貞を討ち取っていれば高氏と交渉の余地もあったかも、あんな悲惨な最後はなかったかもとか。歴史にifはありませんが。この後は一気に鎌倉街道を洲崎まで南下。守時の壮絶な戦いを経て、鎌倉幕府滅亡へと繋がっていくのです。

 そして、鎌倉街道以前から府中と国分寺を結んでいた東山道武蔵路。なぜそのまま鎌倉街道上道とならなかったのかはよくわかりませんが、西側を沿うように上道が併行しています。それにしても新田義貞によって国分寺が焼失したのは何とも残念。薬師堂を寄進したくらいじゃねぇ。その頃の国分寺は彼らにとっての価値はないものだったんだろうか。何となく高氏だったら火をかけるなんてことはしなかったんじゃないかなんて思うけど。どうなんだろう。

 そして最後の姿見の池で名前が出てきた畠山重忠。重忠の館は上道の途中にあるのに、なんで二俣川で合戦になったのだろうと不思議でしょうがありません。調べてもよくわかりませんが考えられる道は、府中から枡形を抜け荏田で中道と合流する道と、町田から長津田を経て二俣川へ合流する道。前者だと桝形を通るから二俣川につく前に謀られたことに気が付くかもしれない。重成が本当に裏切ったのかどうかはわからないけどね。後者の方がありそうだけど。どうなんでしょう。来年の大河で鎌倉街道も少し騒がしくなるのでしょうか。