マダオなWALKING′!

まるでダメなオバサンによる まったりダラダラお気楽旅

【鎌倉街道 中道】7日目 二子から千川  2021.6.25(金)

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哲学堂公園 四聖堂

哲学堂公園

明治37年(1904)哲学館(現東洋大学創立者で妖怪博士としても知られる井上円了博士が、哲学をテーマに創設しました。またこの辺りは和田山と呼ばれ、鎌倉時代和田義盛が居館を構えていたとされてます。

 

二子二子玉川駅→ 弦巻 笹塚 → 中野 → 千川 →千川駅) 約18m

 

 二子の渡しを過ぎて東と西に分かれた中道。前回は渋谷・池袋を通る東ルートを歩きました。そこで今回は、大山街道から世田谷城跡に抜けて笹塚・中野を通る西ルートを歩きます。梅雨の真っただ中。空模様も気になるところですが、雨雲レーダーを頼りに出発しましょう。

 

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二子玉川駅を前回とは反対の西口を出て、多摩堤通りに抜け首都高速の信号で右に曲がります。足元には「大山道」の道標。大山道も二子の渡しから二手に分かれていて、今歩いている道(慈眼寺線)と線路の反対側の行善寺前を通る道(行善寺線)があります。

 

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道なりに進み首都高速をくぐり商店街の中を歩いていきます。子供たちの描いたかわいらしい大山道が道案内してくれます。

 

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太夫

江戸時代、徳川家康が代官小泉次大夫に命じて切り開いた灌漑用水「次大夫堀」(六郷用水・丸子川)に架かる橋です。橋を渡ると国分寺崖線の坂をのぼります。

 

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瀬田玉川神社

神社のHPによると「戦国時代の永禄年中(1558~70)に、この村の下屋敷に勧請し、その後、寛永3年(1626)、瀧ヶ谷に長崎四郎右衛門嘉国が寄付をして遷宮した」とあります。空模様を気にしながら歩いていたので寄らずに過ぎてしまったのですが、境内で慈眼寺とつながり、慈眼寺の参道前には元禄十年(1697)に造られた笠付庚申塔あるようです。

 

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如意山 福智院 大空閣寺(真言宗豊山派

東京で唯一の虚空蔵霊場です。虚空蔵菩薩は、丑年・寅年生まれの守り本尊です。

 この先で環八を渡り進んでいくと、大山街道(行善寺線)との追分になります。延命地蔵があります。が、見損ねてしまいました。こちらから歩くと後ろになるんです。なんだか今回はこんなのばかりです。大山街道を歩いた時に確認しましょう。この先しばらく大山街道は一本道。

 

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道なりに進んで東名高速をくぐり、用賀駅前の信号を渡ったら斜め左の細い道を歩いて信号を渡った先の分れ道がまたまた大山街道の追分。右は「大山街道・新町線」そして左が「大山街道上町線」。鎌倉街道は左の上町線を進みます。進んでいくと、道の途中に案内板がありました。歩いているときの案内表示にはいつも元気をもらいます。まぁ今回は鎌倉街道として歩いているんだけどね。

 

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衛生材料廠跡

1929年に芝白金から陸軍衛生材料廠が移転してきて、 国立衛生試験所 → 国立医薬品食品衛生研究所となり、紆余曲折ののち府中への移転が見送られ現在は川崎市へ移転しています。解体工事後の跡地は何になるんだろう。

 

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馬頭観音

 

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大山街道 旅人の像

大山詣とは名ばかりの商家の主人が、たぶんここで一服したであろう。というのがこの像だとか。私も一緒にひとやすみ。横切っている道は蛇崩川の暗渠の緑道。辿っていけば前回の道につながります。

 

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道なりに進み信号を渡ったの木の下に、津久井往還(登戸道)との追分道標らしき石碑。碑には、ここにあった道標は郷土資料館にある云々とありました。まっすぐ進むと桜小前の交差点。ここで大山街道とはおわかれ。大山街道はこの先、ボロ市通りへと進みます。鎌倉街道は、まっすぐ進んで東急世田谷線を渡ります。

 

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烏山川緑道

烏山川は、世田谷区北烏山にある高源院の弁天堂の池が源流となり、北沢川と合流して目黒川になります。でも緑道を歩くわけではありません。横切った際にタチアオイが奇麗だったから写真を撮っただけなのです。

 

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世田谷城址公園

清和源氏・足利氏の一族である吉良治家が南北朝時代に築城したといわれています。「吉良御所、世田谷御所」と呼ばれました。その後、吉良頼康の代に小田原北条氏と縁戚関係を持つようになりますが、天正十八年(1590) 豊臣秀吉の小田原合戦により没落、廃城となりました。

 

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大谿山 豪徳寺曹洞宗

招き猫発祥の地といわれる豪徳寺に伝わるお話にゃん

「ある日、この地を通りかかった鷹狩り帰りの殿様が、お寺の門前にいた猫に手招きされ、立ち寄ることに。寺で過ごしていると、突然雷が鳴り雨が降りはじめました。雷雨を避けられた上に、和尚との話も楽しめた殿様は、その幸運にいたく感動したそうです。それが彦根藩主の井伊直孝でした。」

 

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北沢川緑道

豪徳寺から区役所西通りに出て真っすぐ北上していきます。梅ヶ丘駅を過ぎたところにまたまた緑道。烏山川と合流して目黒川となる北沢川が暗渠となった緑道です。

 

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徳明地蔵尊

そのまま真っすぐ進むと突き当りにお地蔵さまがいらっしゃいます。徳明の名は、お地蔵様の慈悲、徳によってこの地が明るく住みよい町になるようにと願ってつけられました。

 

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羽根木公園

お地蔵さまからまっすぐに進んで羽根木公園でお昼タイム。恒例のコンビニ飯です。羽根木の名称は、東京都荏原郡世田谷村大字羽根木の飛地であったことからつけられたそうです。その昔は六郎次という鍛冶屋が住んでいたことから「六郎次山」、大正時代末期には敷地の一部が根津財閥の所有であったことから「根津山」とも呼ばれています。

 

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子育地蔵

街道に戻り、商店街を抜けて東松原駅の踏切を渡ります。その先を右に進んでいくと左手にお地蔵さま。享保の時代、飢饉で悪疫が流行り、里人の苦悩を救うため古老の夢枕にたったお地蔵さまを勧請しました。

 

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大原一丁目 柳澤の杜

なんだか素敵なお家です。伊藤安兵衛が設計し、昭和二十六年(1951)に建築された戦後復興期の小住宅で国の有形文化財になっています。個人のお宅なので、お庭の見学はできますが、家の内部は見れません。暖炉のあるホールはちょっと見てみたいです。

 

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井の頭通りを渡り、笹塚の駅を抜けて甲州街道を渡ります。渡った先に見たことのある交番と交番前の一里塚案内板。あの頃はコロナなんて思いもしなかったのにねぇ。交番の1つ東側の商店街を進んでいきます。商店街を抜けて行き止まりになったら右に左に、駐車場の所では右にと曲がりながら進んでいきます。道なりに公園を二つ過ぎると多田神社です。

 

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多田神社

寛治六年(1092)源頼義、義家が前九年後三年の奥羽平定の帰途 大宮八幡宮に参拝し当地に先祖多田(源)満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。

 

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杉並能楽堂

多田神社沿いに歩いて、和田見橋で神田川を渡ります。突き当りを右に曲がり緩い坂を上っていきます。左手に見える能楽堂は、明治四十三年(1910)に本郷に建てられ、昭和四年(1929)に移築再建されました。都内で二番目に古い能楽堂です。

 

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十貫坂地蔵堂

坂の途中の小さな公園の入口にあるお堂のなかには、お地蔵さまと庚申塔が祀られていました。

 

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十貫坂をのぼると鍋屋横丁通りに入ります。商店街を歩いていきます。

 

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三味線橋

桃園川は杉並区天沼弁天池公園付近を源流として東中野駅南側にある末広橋付近で神田川に合流します。1967年に全区間が暗渠となり桃園川下水道幹線となりました。この付近を歩くと近くから三味線の音が聞こえてきたことが名前の由来となっています。

 

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紅葉山公園

大正時代は個人の所有地で当時から紅葉の大樹が数多く植え込まれ「紅葉山」と呼ばれていました。1970年に東京開都百年記念事業の一環で公園として整備されました。

 

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「たきび」のうた発祥の地

中央線をくぐり早稲田通りを渡り、突き当りの上高田本通りにぶつかったところで右の細い道を進んでいきます。すると突然竹垣が現れます。ここが「たきび」のうた発祥の地といわれる場所です。この童謡の作詞者 巽聖歌は、昭和5、6年から約13年間、萬昌院の近くに住んでいて、この辺りを散歩しながら「たきび」のうたの詩情を沸かせていたといわれ、垣根の続くこの一角は今も当時の面影をしのぶことができる場所です。と書いてありますが、今じゃ焚き火なんて街中で簡単にできるもんじゃありません。小さい頃は焚き火で焼き芋とかあったけど、今は無理。焚き火ができるような空間と心の余裕がまちづくりには必要ですよね。ここからちょっと寄り道して新井薬師に向かいます。

 

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新井薬師真言宗豊山派 新井山梅照院薬王寺

御本尊は、薬師如来如意輪観音の二仏一体の黄金仏で、鎌倉時代の武将・新田家代々の守護仏でした。戦乱の最中に行方不明となっていた二仏一体の像が天正14年(1586)梅の木の穴から発見され、安置するために建立されました。秘仏をなっていますが、12年に一度、寅年に開帳されるそうです。来年です。その頃にはマスク外せるかなぁ。お薬師様に願うは一つ。「コロナ退散」

 

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お地蔵さま

新井薬師前駅の踏切を渡り、街道に戻ります。前を歩いている小学生の女の子が突然ぴょこんと壁際に向かってお辞儀。お地蔵さまです。愛されているですね。

 

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哲学堂公園

妙正寺川にかかる四村橋の左手にある公園は、明治37年(1904)哲学館(現東洋大学創立者で妖怪博士としても知られる井上円了博士が、哲学をテーマに創設しました。園内には、孔子・釈迦・ソクラテス・カントを祀る「四聖堂」や、聖徳太子菅原道真荘子朱子・龍樹・迦毘羅仙を祀る「六賢台」、哲学上の講話や講習会を行うための講義室「宇宙館」など多数の古建築物があります。またこの場所には、和田義盛の居館や「四ツ塚」と呼ばれる4基の古墳が存在したといわれています。

 

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オミナエシ

もう咲き始めていました。

 

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街道に戻ります。道なりにどんどん進み西武池袋線の踏切を渡り進んでいきます。要町三丁目交差点までついたところで今日は終了。千川駅から帰ることにします。

 

 前回なんとなく中途半端な感じで終えてしまったので、もうちょっと歩いてみることにしました。今度は西ルート。前回は山手線内を進んでいたのですが、今回は山手線の外を大まわりして同じ川や通りを横切っていきます。都区内といっても渋谷や新宿などの繁華街を通るわけではないので、落ち着いて歩くことが出来ます。適度に公園もあって、ひと休みするにも困りません。雨が降りそうなお天気でしたが、何とか降られずに済みました。駅の近くを通るので途中リタイアがいつでもできるというのはこんな日には安心です。